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李 暠〔『大唐西域記』によると敦煌太守李浩と述べている。〕(り こう)は、五胡十六国時代の西涼の創始者。諡号は武昭王。 == 生涯 == 李昶(字は中堅)遺腹子)として隴西郡狄道県(現在の甘粛省臨洮県)に生まれる。 隴西李氏は河西地方の漢族社会でかなりの名族として認められていた。秦の名将李信を祖とし、その曾孫の前漢の名将・李広の中子(真ん中の子)の李椒(或いは李敢とも)の15代目の子孫といわれる。祖父の李弇は前涼の武衛将軍・天水郡太守を務めて安世亭侯に封じられ、李暠の代まで世襲された。父の李昶は李暠が生まれる前に死去したために、孤児となった彼は若くして学問を好み、経史に通ずる一方、武芸にも堪能で、孫呉の兵法に習熟した。沈着で大らかな性格であったため、漢人豪族らの信望を集めた。 龍飛2年(397年)、後涼の建康太守段業が後涼から自立して北涼を建てた。翌神璽2年(398年)4月、敦煌を支配した段業は敦煌太守の孟敏を沙州刺史に任命、同時に漢人豪族の支持の厚い李暠をその配下の效穀県令に任じた。間もなく孟敏が病死したために、漢人豪族らの推挙を受けて李暠が敦煌太守となった。 天璽2年(400年)11月、北涼の晋昌太守・唐瑶が北涼から離反、李暠を大将軍・涼公・秦涼二州牧・護羌校尉に推戴したことがきっかけとなり、西涼が成立した。 即位後は北涼の沮渠蒙遜の侵攻を撥ねつける一方、農耕・養蚕や西域との貿易を奨励して安定した国家を築いた。また漢族社会の伝統に従い、学校を作って儒教を振興し、常に漢文化の保持に努めた。 建初13年(417年)2月に病死、享年67。次男の李歆が後を継いだ。 なお、唐の高祖李淵は武昭王八世の孫を称していたため、唐代に成立した『晋書』ではその諱を避けて字で李玄盛と記される。だが、宮崎市定の説によると唐室の李氏は鮮卑系の大野部(だいやぶ)が漢化した氏族であり〔中華民国の学者姚薇元は唐をテュルク系高車を出自とする代郡李氏とする見解を示している。〕、武昭王との血縁関係は全くないと考えられている。ある説では、武昭王の子孫が北魏に滅ぼされると、何故か特別な計らいで西涼李氏は北魏の庇護を受けて、以降も続いたという。『新唐書』によると、唐代の詩人の李白は李暠の9代目の直系とされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李コウ (西涼)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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